忠義をつくす
1575年の長篠合戦の際に、命懸けで長篠城から重囲をくぐり抜けて信長のもとへ援軍の要請をしに行った鳥居強右衛門を、武田勝頼はその帰りに捕らえて磔にしました。 これを聞いた家康は「武田勝頼は大将の器ではない。なぜなら勇士の使い方を知らないからだ。鳥居強右衛門のような豪の者は敵であっても命を助け、その志を賞してやるべきである。 これは味方に対して忠義ということがどういうものかを教えることにもなるのだ。自分の主君に対して忠義をつくす鳥居強右衛門を、それが敵だからといって、憎いからといって磔にかけるということがあるか」と本気で軽蔑したといいます。
馬の名人
秀吉の小田原攻めに出陣したときのこと家康らは谷間を行軍中、途中の谷川にかかった橋が細いため馬では渡れず、橋の上下をみな歩いて渡りました。 家康も馬でそこに来ましたが、それをたまたま遙か山の上から見ていた丹羽長重、長谷川秀一、堀秀政が「家康公が馬で細橋を渡るところを見物せよ」と言いながら見ていると、馬は従者に渡して家康は徒の者に背負われて橋を渡りました。それを見ていた三将の配下の兵たちは「家康公は馬の名人だがあの橋を越すことが出来ず人に背負われて渡られた」と笑いましたが、三将は非常に感心して「家康公はあれほどまでに馬の達人とは知らなかった。馬上の巧者は危ないことはしないものだ。特に秀吉公の御陣前のことなので身を慎んで危ないことはされない、これまことに近代の巧者と申すべきである」と感嘆したといいます。
思慮のない者
奥州九戸での一揆、九戸政実の乱が起こったときのことですが、家康は武州岩附の城まで出陣しました。そこで井伊直政を召されて「その方は軍装整い次第出陣し、蒲生・浅野と協力して九戸の軍事を計れ」と命じました。これを聞いた本多正信は、家康の前に出て「井伊直政は当家の大切な執権ですから、このたびの討ち手はまず彼よりも下の者をつかわされ、それがもし叶わない場合こそ直政をつかわされるのが妥当ではありますまいか」といいました。それに対し家康は「そのようなことは思慮のない者がすることである。なぜならば、最初に軽い者をつかわして埒が明かないからといってまた重い者をつかわせば、はじめに行った者は面目を失って討ち死にする他はない。そうすれば理由もなく家臣を殺すことになり、まことに惜しいことではないか」 と言ったといいます。