今川家への進攻

桶狭間の合戦以降、波乱の日々

長篠の戦い

武田家と対立

今川家の支配地へと侵攻していく一方、織田家の近畿地方への進軍にも何度か家康自ら軍を率いて援軍に向かっています。 徳川家の援軍を得た織田家は近畿地方を制圧し、織田信長は戦国の覇者となります。 今川家の滅亡後、武田家が京都への進軍を開始すると織田家・徳川家の両国は武田家と対立する事となります。 その後武田信玄は上洛の途上で病死しますが、徳川家は武田家と一進一退の攻防を続け、1575年長篠の戦いで織田軍と共に鉄砲隊で武田家の騎馬隊を破ると、 そのまま武田家は衰退して滅亡、徳川家は武田家の支配地を占領していきます。そして1582年、家康の2度目の転機となる事件が起きます。

本能寺の変

1582年に京都の本能寺という寺に宿泊中の織田信長を、家臣の明智光秀が裏切って殺害するという事件が起きました。 兵を率いていなかった信長は光秀の軍に討たれ戦死してしまいます。 この時徳川家康も兵のいない状態で京都に宿泊しており、当日は大阪に観光に出ていたため明智光秀の追っ手に追われて窮地に立たされます。 しかし忍者達が伊賀の山地を越える三河までの脱出路を確保したため、この危機を逃れます。 危機を脱出した家康は兵を率いて京都に戻ろうとしますが明智光秀は豊臣秀吉によって倒されていたため、まずは元武田家の領地を制圧して力を蓄えます。

豊臣秀吉

織田信長亡き後の織田家の実権は豊臣秀吉が掌握しつつありましたが、織田信長の次男である織田信雄も自分が後継者だと主張しており、徳川家康は織田信雄と同盟を結んで豊臣秀吉の軍と戦う事になります。この戦いは小牧・長久手の戦いと呼ばれ、徳川軍が3倍以上の兵力を持つ秀吉軍を破った戦いとして有名です。ですが織田信雄が豊臣秀吉と講和してしまったため家康も秀吉側からの講和を受け入れる事となり、双方は和睦することになりました。そしてこれ以後、徳川家康は豊臣秀吉の臣下となる事になります。その後の徳川家康は豊臣秀吉に忠実に仕えることになります。