6歳から人質に
人質として過ごす
徳川家はもともと松平家という家柄で、現在の愛知県東部である三河を拠点としていました。 しかし戦国時代における松平家は当初地方の弱小勢力に過ぎず、尾張の大名である織田家、駿河・遠江の大名の今川家の間に挟まれていました。 そのため松平家の跡取りである松平元康(後の徳川家康)は、松平家を支配するための道具として利用され、織田家と今川家の間を人質として行き来します。 そんな人質だった幼少時代の家康は、その大半を今川家で人質として過ごしました。 織田家にいた頃には若い頃の織田信長と遊んだりもしていたと言われています。
今川家からの独立
そんな家康に1560年、桶狭間の戦いという転機が訪れます。 大軍を率いて京都を目指した今川家の今川義元が桶狭間の地で織田信長の急襲に合い戦死、今川軍は壊滅して遠江に撤退し大混乱に陥ったのです。 この時松平元康(徳川家康)の率いる三河の軍勢は今川軍の一部隊として行動していましたが、今川義元戦死の報告を受けると拠点である三河の岡崎城に帰還、 そのまま今川家から独立します。その後元康は織田信長と同盟を結び、名前を松平元康から徳川家康に改めます。 この織田家と徳川家の同盟は、後に「清洲同盟」と呼ばれるようになりました。
三河の支配
今川家から独立して信長と清洲同盟を結ぶと徳川家はまず三河の今川家の残存勢力を制圧しつつ、三河地方の支配を固め始めます。 三河には一向宗という、宗教の僧侶と信者が結託した独自の勢力「一向一揆」が大きな規模で存在しており、これに苦しめられる事になりました。 桶狭間の戦いから4年後、徳川家康は一揆軍を鎮圧してようやく三河の国を支配する事となります。 こうして地元の地盤を作り終え、三河を支配した徳川家康はその後今川家への進攻を開始するのです。